プロフィール tena-jp.com

濤沸湖から見た斜里岳

 このページでは tena-jp.com の主宰者のプロフィールを紹介します。いろいろなことに取り組んではおりますので、その取組の背景を理解していただけるととてもうれしいです。

 NATSUMI の基本公開データー

はじめに

NATSUMI の写真  このWebを見て、作者のNATSUMI っていったいどんな人物なのだろかと疑問に思った方も多々いらっしゃるのではないかと思います。といってもそんなに謎がある人物ではないと自分では思っているのですが・・・。

 Web全体を見ていただければ、それなりに理解していただけるかと思ってはいるのです。いずれにしても関心のあることは多岐にわたっていますし、Webのテーマを考えるとそれぞれがどう関連するかというところが一番の 重要なテーマではあると考えています。

 このページでは、NATSUMIについて、基本的なデーターを公開します。多少は参考になるのではないかと思っています。質問等ありましたら、お問い合せください。

名前 佐々木 夏実(ささき なつみ)

写真:韓国は板門店でのNATSUMI  この「夏実」という名前から、いろいろな誤解が始まることも多いのです。夏実=女性というイメージが強いらしく・・・。幼少の頃は、かなり美少年であったらしいのですが、年を増すことに、こうなってしまいました。特に、ネットワーク上でのお付き合いをした方の中には、僕を絶世の美女だと誤解され、ある時のオフラインミーティングでお会いした時、さっと車に乗って帰られたこともありました。

 それ以来、ネットワーク上では「僕は」という表現を使ってはいるのですが(^^;でもこの名前を本人は実に気に入ってるのです。それにしてもいろいろ「誤解」が多いなぁ・・・(苦笑)

 しかし、40半ばにしてちょっと決意をしてダイエットに挑戦。最近その効果が出てきつつあります。ここ2年ぐらいの間僕を見ていない人は、その変化にちょっとびっくりするかもしれません。そそ、生まれは1950年代の後半です。

東京26年、横浜20年、現在は北海道・小清水町に在住

写真:横浜の団地から見えた周辺の風景  26歳の時に結婚することになり、長年住み慣れた東京都世田谷区三軒茶屋から横浜の緑区(当時)に引越しました。当時の職場まで5分でいくという職住接近を実現していました。もっとも職場と自宅が近すぎると、仕事と私生活が混同する感じで・・・。

 その後、東京の職場に移り、横浜から東京まで痛勤しました。職場の住宅(官舎)が横浜にあり、住むようになりました。20年間住みました。

横浜の自宅の近くの田んぼ  近くには、田んぼ・畑・果樹園・養豚・酪農・肉牛肥育・養鶏というように日本の農業の姿があり、身近に感じられる場所でした。

 自宅から20分ほどのところに農業専用地区もあり、その田んぼで稲作の耕作体験などもしていました。もっともそれらを住宅団地が包囲する格好ではありますが、いろいろな環境が併存している「横浜」は大好きな街となりました。

横浜みなとみらい地区 2004年の3月、転職することになり官舎住まいに終止符を打ち、家族と別れて横浜市南区の中村町に引越しました。NATSUMI として初めての一人住まいで、2部屋のマンションでのんびり?生活していました。南区の中村町は、横浜の下町という雰囲気がしました。家々が密集しています。近くには横浜橋商店街があり、安価に良い品物が揃うので大変重宝していました。もっとも深夜は福富町界隈を徘徊していたことが多かったですが・・・(^^;

 そして、2005年の4月23日(土)に横浜を去り、家族が生活する北海道斜里郡小清水町に住むようになりました。

職歴 盲学校の教員を18年間、合計23年間は教員生活

写真:修学旅行で訪ねた小豆島の二四の瞳記念館 22才の時に、教員になりました。教員になることは、なぜか小学校時代からの夢だったのですが、何とか実現しました。非常勤講師を5年間やりました。

 その5年間の経験をもとに、筑波大学附属盲学校に勤務するようになりました。18年間勤務したも職場の担当は、社会科の主に地理分野です。近年はは、コンピュータ関連の授業が増えると同時に、職場のインターネットのメンテナンスやWeb制作を担当していました。

地理教育研究会の現地見学会の様子  学生時代から地理教育に関心を持ち、卒業論文は、「地理教育における学力論の歴史的検討」なるものを書きました。教員になってから民間教育研究団体である地理教育研究会(地教研)の委員をさせてもらっています。

地理教育をテーマにした研究会に属したことで、日本や世界の各地を自分の目で確かめることの重要性を学び、研究会で開催された各地を訪ねるツアーに参加しつつ、自分で関心のある地域を歩き回る試みをしてきました。北海道に移住するきっかけとなったのもこうした「現地を歩き回る」ことの大切さの中で、北海道の素晴らしさに惹かれていったことは十分に関係があると考えています。

日本書籍の地理教科書  また、日本書籍の中学生用の教科書(社会科・地理的分野)の編集委員もしていました。新しい教育課程では、インターネットを活用した教育が本格始動するので、これまでやってきたことがかなり役立ちそうな気配です。

この教科書の教師用の資料として、教科書執筆者が授業で使っている写真を集めて、CD版の写真集を作りました。その後、日本書籍の教科書は採択部数の激減という事態に陥り、教科書供給が難しくなる状況になりました。

 しかし、新たに日本書籍新社を結成し、平成18年度の教科書改定の編集をすることが可能になりました。もちろんこの改定作業に対して、編集委員を仰せ付かり、真摯に編集作業に関りました。

知床の原生林  教員は辞めましたが、教科書に関る仕事や教材制作の仕事は今後も継続する予定です。また、これまでやってきたことを事業化していきたいと考えています。これまで各地を巡回し撮りためた教材で利用できる写真がたくさんあるので、これを有効活用しようと思っています。目録などの整理はまだできていませんが、教材出版関係者の方でこういう写真がほしいというご希望がありましたら、ぜひご相談ください。特に現在は北海道各地の教材で使える写真が充実してきました。

転職 教員から自営業へ。そして移住

 2004年3月、18年間勤務した筑波大学附属盲学校を退職しました。

 なぜ退職したかとよく聞かれます。

 正直なところ成行き(^^;とうところが大きかったかもしれませんが、整理すると以下のようなことがあるのではないかと思います。

職場の一つのピアサポート株式会社  もちろん、収入の問題や年金の問題など将来的な不安はたくさんありました。というか現在でもかなり不安です。しかし、当面は厳しいかと思いますが、ここで踏み切っておかないと逆に後悔することになってしまうのではないかということが大きかったように思います。

 盲学校の教員として、もうちょっとやらなくてはならないこともあったとは思いますが、それよりも今自分がやってみたいことの課題をやるという選択肢のほうが僕にとっては大事に思えたのでした。そして、2004年4月〜2005年4月の1年間は次のような仕事をやりました。

 仕事との関連性等でいうと以下のことをやりました。

現在の仕事 ITサポート@オホーツクというSOHO企業を展開しています。

無線ブロードバンドのアンテナ  1年間、家族と別れて生活したわけですが、やはり家族といっしょに生活することの重要性がわかってきました。

 2005年の春に、家族が生活している北海道の小清水町にADSL並のインターネット回線が開設されることになりました。日本で初めて5G帯という周波数を使った無線ブロードバンドの開設です。このインターネット回線があれば、いろいろな展開が可能になるかもしれないという思いがありました。

移住した日の我が家の前の畑  横浜での仕事はとりあえず辞職し、自分で北海道で何ができるかを考えることにしました。自分にとって何をすることが意味あるかについて考えた結果、しばらく家族のもとで生活してみることにしました。

 とりあえず決まった仕事はありませんでした。自分で何かを始めるしかありません。しかし何かをすることで新しい可能性を追求したいと思って横浜での生活に終止符を打ち、家族のいる小清水町に移住しました。

守成クラブ北見の例会 移住後は、当面首都圏つながりの仕事をしてきましたが、2006年以降は北見市で毎月開催されている異業種交流会の守成クラブに参加するようになってから、北見市を中心とした企業のホームページ制作の仕事をするようになりました。

当初はホームページといってもピンとこなかった企業の方も少なくなかったのですが、毎月例会に参加し、少しずつ企業活動において、インターネット上にホームページがあることの意味をいろいろな方に話して回りました。

ある企業の社長さん ある会社の社長さんより、これからの時代の新しいビジネスのあり方として、インターネットを利活用したい。そのためにとりあえずホームページを制作してみたいので協力してほしいという依頼がありました。

 それをきっかけに他の企業の方々も感心を持っていただけるようになり、現在、毎月のように新規のお客様を獲得できる状態にまでなってきました。しかし、まだまだ安定した状態とまではいかず、さらに努力を続けて、新しい可能性を模索している段階とはいえるかと思います。

網走市のIT講習  一方、このホームページ制作と関連する「IT」の仕事として、コンピュータのトラブルを解決したり、コンピュータ操作の基本を講習する「訪問ITサポート」の仕事も展開しています。

 網走市の高齢者を対象としたパソコン講習会の講師を依頼していただいています。この講座に関する関心とニーズはかなり高く、今後この分野での展開もちょっと楽しみです。

オホーツクの小学校のパソコン教室 まだまだこの仕事も地域に浸透していないところが問題ですが、少しずつ需要も出てきております。またこれに関連して、関西圏の会社や札幌の会社より業務委託の話も来ておりまして、こうした展開も今後ちょっと楽しみな段階になっています。

 ITサポート@オホーツクとしての事業展開については、ITサポート@オホーツクのホームページをぜひご覧になってください。また、この企業活動に関わってのブログも併行して展開しています。

障害者問題に関して

写真:パソコンボランティアの活動(パソコン相談会)  盲学校の教員になる前から、大学時代、最初に赴任した私立中学校でも障害者問題との関りがありました。その後は盲学校に勤務したことから、当然のテーマであるわけですが・・・。

 90年代の後半以降は、障害者とパソコンをテーマに障害者の生活がパソコンやインターネットを利用することで大きく変わること事実にあちこちで遭遇したことを土台に様々なサポート活動の展開に関わりました。

パソコンボランティアカンファレンスにて 障害のある人のIT利用を進めるために仲間と2000年に横浜でDream Navigator Yokohamaというパソコンサポートボランティアの団体を立ち上げ、2005年まで代表を務めました。

 また、日本障害者協議会(JD)のネットワークプロジェクトの委員として、障害者のパソコン利用の可能性を追求しました。その後神奈川県社会福祉協議会・横浜市社会福祉協議会のIT関係の委員もするようになりました。横浜市の障害のある人対象のIT講習会の講師なども担当しました。

くらしネットオホーツクのホームページ オホーツクに移住してからは、障害のある人とITをテーマにして、様々な試みを企画しようとしましたが、なかなか新しい展開を生み出すチャンスがなく、個別的なサポートを行う程度でした。

 2007年に道内の各地に障害のある人と家族を対象にした相談センターの活動が展開する中、オホーツク圏でも障害とITに関わった展開をスタートさせるきっかけを得ました。その一環としてくらしネットオホーツクの活動に関わるようになりました。

趣味 バンド演奏(ギター)、畑仕事、パソコン、写真、バイク等

バンド活動

写真:バンド(tayo)のでの演奏活動(都筑区えだきんパークの野外ステージにて)  バンドは、中学1年生の時にビートルズバンドを結成したのを皮切りに、社会人になってからもいろいろなバンド活動に参加しました。友人のレコーディングにも参加し、一枚ミニアルバムを発表しています。

 30代の後半に、少し本格的にギターを勉強しようと音楽学校に社会人入学し、ジャズギターの基本を学びました。横浜在住の最後の3年間は主にジャズ・フュージョンのバンド活動を活発に行っていました。

 オホーツクに移住してからは、北見のサックスプレイヤーを紹介していただいたのをきっかけにオホーツク在住のジャズプレイヤーとの交流が深まり、いくつかのバンドでギターを弾かせていただくようになりました。現在は、北見市常呂のジャズバンドのメンバーとして活動しています。

 またインターネット上で知り合った同じGibson ES-335を所有する仲間4人とギター4本+ボーカルのバンドもやっています。

畑仕事

トラクターを体験させてもらっている筆者  都会で育った僕にとって、農業は全く無縁な世界でした。しかし、地理の教員であったことで、日本や世界の農業に関心を持つことは重要なことで、そんな問題意識からパソコン通信時代でに全国の農家と交流を持つことを考えました。

 その結果、北は北海道、南は沖縄まで各地のネットワーカーファーマーの農業現場を訪ね、現在でも各地の農家の方々と交流を続けています。

写真:団地でやっていたの片隅の菜園 一方、横浜在住時代は、一時は毎週2時間以上かけて農家の好意で貸していただいた畑で仲間と共同作業したり、自宅のあった団地の片隅に小さな菜園を創っていました。

 北海道に移住してからは、自宅に家庭菜園が併設していますので、そこでいろいろなものを栽培しています。

コンピュータ

 コンピュータは僕にとって、趣味というか生活の一部なんですが、もはやヲタクの一部にはなっているような・・・最近はパソコンの組立が好きで、何台も組み立てました。自宅には5台のパソコンが動いています。

 元々コンピュータとは無縁の生活だったのですが、今では生活の主体がパソコンで動いているようなものです。

写真

オリンパス一眼レフデジカメを愛用しています。  写真は中学・高校時代写真部に所属していました。今はデジカメにはまっています。デジカメを使い出して、それまで使っていた一眼レフとの違いを意識して、デジカメの一眼レフが出始めた頃のオリンパスの製品を買いました。その後、安価でレンズ交換もできるものが出てきましたが、いまだにこのカメラを愛用しています。

 一度このカメラを使い出すとなかなか面白くなっています。

バイク

今乗っているバイク  バイクは一時250CCに乗り、限定解除もめざしていましたが、125ccでとりあえず満足していました。転職して、車は家族の住む北海道に持っていってしまったんで、通常の足として、2004年5月に250ccのスクーターを購入しました。

 台湾製のKYMCO GRAND DINK 250Z(スクーター)です。これがよく走ってくれます。北海道に来て、道南をのぞくほぼ全域のカーナビデータ取得のための交差点調査の仕事をしましたが、この時はこのスクーターが大活躍で、一気に12,000kmも走ってしまいました。

その他

流氷  昔はスキューバー・ダイビングもしていたのだけど、もう15年以上いっていません。高い機材を購入したのに・・・。再度挑戦してみようかな・・・と思いつつ。知床の流氷の下を潜ってみないか?というようなお誘いも受けましたので、ぜひ挑戦してみようかななどとも考えています。

 気がつくと朝になっていることがよくあります。まあ、よく言えば集中力があるということなんでしょうけど、夢中になっていると、他のものが見えない、聞こえない状態で、家族には迷惑をかけっぱなしです。

   ネットワークに関して

 今でこそ、インターネットがメージャーな存在になりましたが、ネットワークということでは、「ヲタクのパソコン通信」という時代からはまりました。先日NIFTYのID発行のお知らせというものが出てきたのですが、その日付は1990年の6月15日になっていました。かれこれネットワークには15年以上の年月が・・・時がたつのははやいものです。

 NIFTYでパソコン通信をはじめたのを皮切りに、全国障害者問題研究会のBBSであるみんのねがいネットに参加しました。NIFTY(今の@nifty)では、農と食のフォーラムでは、運営に協力しました。

 その後、神奈川県の第3セクターのネットワークである「K−NET」で様々なテーマのコンテンツに関りました。しかし、このネットワークは経営が不振となると、これまですぐれた運営者たちの中で、経営方針等に批判を唱えたものをどんどん辞めさせる暴挙に出ました。その後そのずさんな経営も破綻し、解散となるわけですが・・・。

 そんな時に、Peopleというパソコン通信ネットワークに参加し、ロックに関するコンテンツのGuru Of Rock、横浜に関するコンテンツであるなにがなんでも横浜の運営をするようになりました。現在はパソコン通信でのオンライン交流からWebや掲示板でのサービスとなりましたが、今も当時のコンテンツは残しています。

   家族構成 妻、娘二人、母の5人家族

写真:NATSUMI の家族(北海道ニセコ駅前にて)  我が家の家族は全員の血液型がB型というきわめてアバウトな家族です。おばあちゃん(僕の母)は、絵にこっていて、展覧会に出品したり、多忙です。このWebの中で時々掲載される「絵手紙」はおばあちゃんの作品です。娘たちは小学生です。次女が小学校5年生、三女が小学校4年生です。最近は二人ともネット少女になって毎日コンピュータにむかっていろいろ検索したりしながら、一方で今は自分のサイト構築の作業をしています。誰に似たのか?体は大きいです。

娘たちが通う小学校  その家族ですが、2004年4月から僕以外は北海道の小清水町に移住しました。三女は横浜の小学校に入学しましたが2ヶ月程通学したところでまったく学校にいかなくなってしまいました。いろいろ取組みをしたのですが、なかなかうまくいきません。

 かみさんはフリースクールなどにも関っていましたが、たまたまWebで山村留学に関する話題を見つけ、NATSUMI の友人が近くに居住して、子どもたちも何度か訪ねている道東の小清水町で実施ている山村留学のプログラムに応募し、移住しました。

北海道の家族の住居  住まいは新築の町営住宅で、周辺はとても自然に恵まれた素晴らしいところです。近くには原生花園があります。この自然豊かな大地の中にある小さな小学校(生徒数18名:2007年)で、三女はまったく学校にいかなかったことがうそのように毎日楽しく学校に通っています。次女ももちろんすっかり楽しんでいます。

 住まいは、バリアフリー仕様になっています。暖房はバッチリで、二重窓にはなっていませんが冬も朝夕に暖房を入れるだけでTシャツ一枚でもOKです。家庭菜園も付属しています。

   最後に書いておきたいこと(長女のこと)

わが家の娘たちの写真  我が家にとって一番悲しい出来事は、長女の実生(みお)ちゃんが、4歳と10ヶ月で亡くなってしまったしまったこと。前日まで、笑いながら遊んでいた実生ちゃんが、1993年の3月12日、インフルエンザの菌が脳に回り、急性脳炎で脳死状態となってしまいました。長くて1週間持てばという中、友人・ネットワーカーや職場の皆さんの励ましがありました。毎日のように電子メールで励ましの声を届いたことはとても支えられました。

次女。三女も通った幼稚園の運動会 楽しみにしていた幼稚園の入園式は、幼稚園の園長先生が病室まで来て、やってくださいました。

 しかし、現代の最高水準の医学で対処したものの、実生ちゃんは1993年4月25日の午前2時、別の世界へ旅立ちました。元気で生きていたら、19歳です。(この前まで僕は長女が亡くなった病院のすぐそばに住んでいました。)

 どん底の中から、僕たち家族にはその後二人の娘が生まれました。二人は実生ちゃんのことは知らないのですが、一番上のお姉ちゃんとして慕っています。

 写真:わが家の娘たち(2007年・初夏 北海道・サロマ湖の釣り船に乗って)


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