
障害のある人たちと関るようになったきっかけと、現在の僕の障害のある人たちの生活に関する問題意識を整理してみました。実際に再度整理してみると、まだまだこの問題は奥が深いと実感した次第です。しかし、この問題を考えるようになって、障害のある人たちの生活にとってITがどれだけ大きな可能性をもたらし、さらに大きく世の中の状況を変えてきたかを見てみると感動的です。
僕が障害のある人たちと関るようになったのは、大学時代のことです。僕の通っていた大学は、様々な障害のある友人たちが入学していました。
大学構内は、決してアクセシビリティーがよい状態ではありませんでした。あちこちの階段で難儀している車椅子の友人がいました。授業に出れば、教員の話す言葉が聞こえないので、ノートをのぞく聴覚に障害のある友人もいました。また、ゼミでは点字を使っていっしょに学ぶ友人もいました。いわば日常生活の中に障害のある友人がごく自然にいっしょに生活していたのです。
しかし、一般社会の中に生活していると、意識的に障害のある人たちことに対して、なかなか関心がもてないところが正直なところだと思う。そういう意味では、大学時代にごく自然に障害のある人たちとつながりがもてたということは、僕にとって障害のある人に関りももつ原点であったような気がする。
※ 写真:視覚に障害のある人たちが利用できるIT機器(大阪ITステーションにて:上)、パソコンを操作する障がいのある友人(下):本文とは直接関係ありません。
大学を卒業し、最初に就職した横浜の私立中学校でした。通学中の生徒が電車の中で養護学校に通う生徒をいじめるという事件がおきました。たまたまその養護学校に勤務する教員が僕の高校時代の先輩であったことから、中学生に障害をある人たちの姿をきちんと理解させることが必要であるという結論に至りました。そこでスタートしたのがその養護学校と生徒たちと「交流教育」の取組でした。障害のある人との教育での関りで考えるとこれが原点となるのかもしれないと思います。
※ 写真:横浜・関内駅前にある視覚に障害のある人が利用できる触知地図:本文とは直接関係ありません。
私立の普通中学校に5年間勤務した後、あるきっかけから「盲学校」(筑波大学附属盲学校)に勤務するようになりました。いわば仕事として障害のある人たち、特に視覚に障害のある人たちと関わるようになったわけです。
盲学校では、点字を取得することが教員として重要な課題となりました。ちょうど僕が盲学校に勤務するようになった頃から、点字に関してITを利用した取り組みがスタートしたところでした。
普通のワープロで書いた文書を点字の文書に変換し、それを点字プリンターで出力するという試みでした。また、同時に視覚に障害のある生徒の生活能力の向上という観点から、コンピュータを操作する試みもスタートした頃でした。
コンピュータは通常、モニターの映像を見て処理する道具ですが、視覚に障害のある人たちは、それが困難です。目で見て操作する代わりに、表示されている文字等を音声で出力する機器やソフトの開発が行われた時期でした。
僕の専門は当時社会科でしたが、盲学校に赴任して、視覚障害のことを理解するには、障害を克服していく訓練の授業等に関わったほうが良いということで、今は「自立活動」(当時は「養護訓練」と呼んでいました。)の授業の単元として導入されているコンピュータの授業にも関わるようになりました。その頃、僕も自分のパソコンを購入した。まだNECのPC9801の時代でした。
※ 写真:盲学校では、触知地図と実物を利用した授業を実施していた。教材の収集と地図の製作はITが活躍した。
その後、80年代の終わりにパソコン通信ネットワークが各地で生まれました。当時、商用のパソコン通信ネットワークとしてはPC-VAN(今のbiggrove)とNifty-serve(今の@nifty)が2大ネットワークでしたが、僕はNiftyに参加しました。
これは当時、課題となっていてた僕の専門であったり各地の地域情報を入手するためでした。特に僕にとってはほとんど情報がうとかった全国各地の農業生産者との直接の交流が可能となり、機会があればその農家を訪ねて全国各地を歩きました。
一方、全国障害者問題研究会(全障研)でパソコン通信ネットとして「みんなのねがいネット」が開局されました。たまたま全障研の事務局長(現在も)昔からの友人であったことからネットの運営に誘われ、世話人を担当しました。その後全障研27回全国大会(1993年・新潟)で「ワープロ・パソコン・障害者」の特別分科会が開催されることに、その後昨年の長野大会まで分科会の共同研究者をつとめました。
※ 写真:横浜で開催された全障研大会での分科会の様子
みんなのねがいネットでの取組みの中、全国の障害のある人たちのことをテーマにしたパソコン通信ネットのゆるやかな連携がすすみました。
障害のある人たちのネットワーク活動を発展させることを目的に日本障害者協議会(JD)の中に「ネットワークプロジェクト」が結成され、その委員になりました。
そしてネットワークプロジェクトは、活動の中で明らかになった課題として、障害のある人たちのコンピュータやネットワークのトラブルを解決・支援する役割を担う「パソコンボランティア(略してパソボラ」の活動を全国的に展開する運動をすすめました。
※ 写真:島根県の中学校で障害のある人のIT利用について、ネットワークプロジェクトのメンバーで講演した。
パソボラの展開は、その後パソコンボランティア・カンファレンスとして集約されていく。1997年に早稲田大学開催されたカンファレンスを最初にその後2004年の神奈川でのカンファレンスまで各地で7回開催されました。各地のパソボラの活動に対して熱心な交流と情報交換やセミナーが開催されていきました。
※ 写真:さいたま市で開催されたパソコンボランティアカンファレンスの様子
こうした各地の活動が活発になる中、川崎でパソボラ団体が結成され、2000年には横浜にもパソボラ団体を作ろうとDream Navigator Yokohama(DNY)が結成されました。その後、北海道に移住するまで僕はこのDNYの代表を務めました。
DNYの活動では、横浜市の障害のある人たちのスポーツ・文化施設のラポールで年に3〜4回にわたって「パソコン相談会」を開催してきました。
また、横浜市と連携して、障害者・高齢者対象の「IT講習会」の講師とサポーターをDNYが引き受けました。全国的には1年間の開催でしたが、横浜市は障害者・高齢者対象の講習会を2005まで継続しました。
また、独自のイベントとして、ラポールの芸術市場という企画の中で、障害のある子どもと父母を対象とした「パソコンで遊ぼう」を開催しました。また、ボランティア養成の講座なども他団体と協力しながら開催しました。さらにNECの社会貢献部との協働でシニアITサポータ養成の事業にも協力し、全国各地のパソボラ(ITサポーター)養成をおこないました。
※ 写真:DNYの仲間たちとの記念撮影
2004年3月に筑波大学附属盲学校を退職しました。一方家族は山村留学を目的に北海道小清水町に移住しました。
僕は、DNYの活動の中で知り合った車椅子の岡村道夫氏が代表取締役を務める「ピアサポート株式会社」に契約社員として勤務し、アクセシブルなWebの制作に関わりました。
一方、県域の障害者のITサポートに関わる総務省の実験事業に関わった。この事業は個人的事情で途中で降板せざるを得ませんでしたが、総合的な障害のある人へのITサポートを実施していくにあって重要な意味があったと思っています。
※ 写真:ピアサポート株式会社の事務所
2005年の4月、家族のいる北海道・小清水町に移住しました。住居のあるオホーツク地域で障害のある人たち等へのサポート活動をはじめつつあるのが今日です。
小清水町は、世界遺産に指定された知床の西側に位置する人口6000人ほどの農村地帯です。2005年の2月まではITの孤島として、ISDN回線が唯一のインフラでしたが、町内の小学校に高速なBBを導入することとの関連で、無線によるBBの実証実験が始まりました。
町役場の庁舎の屋上に敷設されたアンテナや拠点におかれた中継局を利用してほぼ町内全域で高速なBBが使えるようになり、我が家もその恩恵を受け、かなり安定したインターネット接続が可能になりました。こうしたIT孤島だった地域で、障害のある人や高齢者へのITサポートは重要になってくると考えています。
※ 写真:小清水町の小学校に隣接して敷設されている無線BBの中継アンテナ
僕の右目は視力が0.02程度しかありません。中学生の時、友人の家に遊びにいって、裏山の林で栗をとっていたら、栗が落ちてきて、そのいがが眼球を直撃し、外傷性の白内障となりました。
水晶体を摘出せざるをえなくなり、その時は一生この視力に付き合うようにといわれました。数年前、眼科でレーザー治療を行い、濁りのあった視野がかなり明るくなりました。
コンタクトレンズを装着すると0.8近くまでになるのですが、右目を使っていなかったことが原因で斜視になっているので、画像がイマイチぶれてしまい、今現在は使用していません。ただし、右目だけの視力だと弱視者である。そうしたことで、弱視者の立場にたって、いろいろなことをこれからも考えていきたいと思っています。
※ 写真:IT支援をしている筆者(横浜ラポールにて)